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    東京にある榎本武揚ゆかりの地めぐりの最後は《築地/飯田橋》編です。築地の④軍艦操練所跡と、飯田橋の⑤北辰社牧場跡、⑥東京農業大学開校の地を訪れました。
    《吉祥寺》編と《墨田区》編もご覧ください。

    Sites of Takeaki Enomoto in Tokyo

    軍艦操練所は、幕末に江戸幕府が設けた洋式の海軍教育機関です。現在では築地の晴海通りに立つ案内板でしか、その痕跡を知ることはできません。
    榎本武揚は1858(安政5)年に長崎の海軍伝習所を修了し、この軍艦操練所の教授になりました。このとき榎本は21、22歳です。
    1862(文久2)年、幕府がオランダに発注した軍艦「開陽丸」の引き取りを兼ねて留学生15人が派遣されることになり、榎本もその一人に選ばれオランダに旅立ちます。

    Remains of Gunkan-Sorenjo

    次に、九段下から飯田橋に向かう目白通りにある北辰社牧場跡を訪れました。
    明治維新の後、榎本武揚は1872(明治5)年に北海道開拓使に任官されます。翌1873(明治6)年には自分の屋敷があったこの場所に北辰社牧場を開き、牛乳の販売を行ったそうです。榎本はオランダ留学中に乳製品や酪農に関する知識を得ていたのでしょう。
    同じ1873年に榎本は北海道で土地の払下げを受け、江別に榎本農場を開き、小樽の土地には東京の牧場と同じ名称の「北辰社」を土地管理のため設立しました。なお北辰とは北極星のことです。

    Remains of Hokushinsha daily farm

    北辰社牧場跡から目白通りを飯田橋駅南側まで歩いたところに東京農業大学開校の地の碑があります。
    旧幕臣でありながら開拓使官吏から中央の外務官僚に出世した榎本武揚は、1885(明治18)年に旧幕臣の子弟を援助するため徳川育英会を設立ます。その徳川育英会を母体に1891(明治24)年、育英黌農業科(現在の東京農業大学)が設立され、榎本は管理長(理事長)に就任しました。このとき榎本は54歳です。

    Established place of Tokyo Univ of Agricalture

    育英黌農業科の教頭には荒川重秀が就任しました。
    荒川は1880(明治13)年に札幌農学校を卒業した第一期13人の一人です。『少年よ大志を抱け』の言葉で有名なウィリアム・スミス・クラーク博士は札幌農学校の初代教頭ですが、札幌滞在はわずか9か月でした。荒川はクラーク博士から直接指導を受けた数少ない学生の一人です。
    荒川は育英黌農業科の教頭のほか、新聞社、逓信省などにも勤めましたが、後年は演劇の世界に入り、1907(明治40)年に日本人による初めての英語劇『ジュリアス・シーザー』(シェイクスピア)のシーザー役を演じたそうです。

    北辰社牧場と育英黌農業科は、なぜ現在の目白通り沿いにあったのでしょうか?恐らく、榎本武揚の屋敷があったことと、そこに利用されていない土地があったからだと思われます。
    明治維新直後の東京は、旧武家地の荒廃が進みました。これらの土地を活用するため、当時の主要輸出品目の絹糸と茶の増産を図り、桑畑・茶畑への転用が奨励されました。しかし、1871(明治4)年にこの桑茶政策は廃止されます。
    目白通りにある《飯田橋むかしむかし・明治のはじめ》の案内板によると、政策廃止の翌年1872年の飯田橋付近には武家地の中に桑茶植付所があったことがわかります。これらの土地が北辰社牧場と育英黌農業科に活用されたのでしょう。

    Old map of Iidabashi

    現在の目白通りのまちなみからは、150年前の北辰社牧場の情景を思い浮かべることはできません。

    Mejiro-dori street

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