工部大学校造家学科第一期卒業生4人のうちのひとり、佐立七次郎の子息・佐立忠雄(さたちただお)も父と同様に建築家でした。<明治・大正期の建築家①佐立七次郎はこちらをご覧ください>
佐立忠雄は1886(明治19)年生まれ、1914(大正3)年に早稲田大学建築学科を第二期生として卒業後、曾禰達蔵の曾禰中條建築事務所で建築設計の指導を受けた後、大倉土木組(現大成建設)に入社します。そして同社を退職し、1921(大正10)年に北海道帝国大学会計課建築事務所に嘱託として赴任しました。
佐立忠雄が札幌に来た当時、小樽は北海道経済の中心として繁栄期にありました。
小樽の「北の誉(きたのほまれ)酒造」の野口喜一郎が自邸として設計し、1922(大正11)年に建てられたのが「和光荘」です。佐立忠雄が設計のアドバイスをしたそうです。
小樽の野口喜一郎にとって「あの日本郵船の支店を建てられた佐立七次郎先生のご子息」ということだったのかもしれません。
「北の誉」はブランドとして存続していますが、会社・工場はすでに小樽にはありません。
「和光荘」も現存するものの野口家の手を離れ、現在、内部は公開されていません。