• 社長の「手間がかかる」「わからない」をお手伝いする小樽市の社会保険労務士です

    1873(明治6)年、北海道開拓使の役人だった榎本武揚(えのもとたけあき)は、江別の対雁(ついしかり)の土地10万坪のほか、同じく開拓使の役人だった北垣国道(きたがきくにみち)と折半で、小樽の土地20万坪を開拓使(当時の北海道庁)から払い下げを受けて購入します。
    小樽の土地は現在の町名では稲穂・富岡・緑の一帯だったそうですが、20万坪とはどのくらいの広さでしょうか?東京ドーム14個分に相当すると言われても、広そうだなとしか思えません。

    そこで現在の小樽駅を中心に20万坪の広さを示したのが下図の青枠の範囲です。たしかに稲穂町ほぼ全域と富岡から緑にかかるエリアに当たります。(※注意 あくまでも広さを実感するための図であり、榎本らが購入した土地の範囲を示すものではありません)
    また、土地管理のために「北辰社」を現在の小樽駅前近くに設立しました。

    榎本と北垣が小樽・稲穂町の土地を購入した1873年は、現在の小樽駅が1903年に開業する30年も前でした。当時の小樽のわずかな市街地は、稲穂町から札幌寄りの勝納川から入船川の海岸近くにあり、稲穂町は荒れ地でしかありませんでした。

    土地購入前年の1872(明治5)年に「北海道土地売貸規則」が制定され、ひとり10万坪を上限として有償で「未墾地(山林原野)」の払い下げを受けることが可能となりました。そうして榎本と北垣は小樽や江別の土地の払い下げを受けて購入したのですが、そのような役人は他にもいたようです。なぜ役人たちは未墾地を購入したのでしょうか?
    ①規則を制定しても未墾地の購入を望む者少なかったので、役人が買うようにとの積極的な働きかけがあったという説と、②役人たちが土地の値上がりを狙って買ったという説があるようです。
    榎本と北垣の土地購入当時の真意はわかりませんが、私には土地の値上がりを狙ったのではないように思えます。ただし、土地購入から30年後に函館からの鉄道が小樽まで敷設され、現在の小樽駅が設置されるのですが、線路と駅の場所は榎本と北垣の土地を選定していると思われます。


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